チャレンジャーの軌跡

第8回「"生きる"とは、森羅万象を味わい尽くす旅のことだ」(中編)

2008/11/18

インタビュアー:有政 雄一

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大手都市銀行の行員という安定した職をなげうち、彼が次の就職先として選んだのは、大手人材派遣会社や通信会社などが出資、全国数百箇所に独自のパソコン教室をFC展開する会社だった。
きっかけは大学時代にさかのぼる。留年して外交官試験にいそしんだ大学5年目の後半、彼は、IT系の人材派遣会社でアルバイトをしていた。バイトといっても派遣人材ではなく、社員としての営業職だった。その時、世話になった派遣会社の部長と銀行時代も親交を維持していた。その部長が、異動人事で、関連会社であるパソコン教室運営会社の社長に昇格、「一緒にやらないか」と彼を誘った時期と、彼が銀行を退行した時期が奇しくもほぼ一致していたのだ。

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彼は早熟なパソコン少年であった。小学校2年の時から、コンピュータ雑誌を読み漁り、10歳の時、親からパソコンをはじめて買ってもらった。今のパソコンとはまるきり違うNECのPC6001という機種だった。彼は言う。「一種のパソコンおたくでしたから、業界動向など意識せずともすぐわかった。そうしたパソコンやITに関する知識と、銀行時代に多少なりとも培った金融や経営の知識を武器に、経営企画という部署で仕事をしました。他の部署では対応できない問題に駆り出される遊軍兼“社長の懐刀”のような存在でしたが、特に、全国に広がったフランチャイジーとのコミュニケーションをどう取るかといった課題に取り組みました」。
この会社に移って痛感したことがひとつあった。「銀行時代に、中小企業相手の営業も経験したんですが、その時、自分が経営の内情などわからずに表面の数字だけ見て、仮にも経営者に向かって、いかに生意気なことをぶっていたか、ということ。今から思えば、浅はかだったと思うのです。もし今、銀行の営業に出たら質量共にトップクラスの成績を取れる自信があります。企業の内側から経営を見る視点を磨くことができましたから、経営者と話す内容も当時とはかなり違うでしょうね」。

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一方、この会社に在籍中、彼の現在に連なる、もうひとつの“幹”が成長しはじめた。スポーツ選手のマネジメント会社への参画である。
「大学のアメフト時代の同期が、それまで勤めていた会社を辞めて、アメリカのマサチューセッツ大学に留学し、スポーツマネジメントの勉強をしていたのです。たまたま同じ大学で同じ内容を学んでいたリクルート出身の人と組んで、彼らが2001年の秋に立ち上げたのが、その会社。
アメリカで活動したい日本人スポーツ選手のエージェント業務、アメリカ仕込みの先進的なマネジメント手法を日本のリーグや球団にコンサルティングする業務、この2つを事業の柱においています。業務も軌道に乗ってきたので、“誰か手伝ってくれるヤツを探そう”という話になり、僕に白羽の矢が立った。
すごく興味のある話だったので、メンバー4人のうちのひとりとして、仕事を手伝うようになりました」。
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同社に登録している選手には、日本人初の大学生メジャーリーガーとなった大家友和や、NBAの下部組織でプレイするバスケットボーラーの森下雄一郎などがいる。「彼らのウェブサイトの作成や維持管理などを、何とか時間をやり繰りして手伝ってました。当時在籍していた会社も早く帰社できるような状況ではなかったので、深夜になってアメリカと日本でチャットミーティングをはじめ、終わってみたら、夜が明けていて小鳥がチュンチュン、そのままシャワーを浴びて着替えて出勤ということもしばしばありました。でも、充実感で疲労などは全然感じませんでした。そんな時、営業に行った大手アパレルで、僕らの仕事を“面白い”と評価してくれたのが、当時、副社長を務めていた田沢さん(仮名)だったのです」。
総合商社から参加し、同社の怒涛の拡大を支えた人物だ。不思議とウマが合った。それから暇を見つけては田沢氏に会いに行き、実際の業務に結びつきそうな気配が漂ってきた矢先、田沢氏が大手アパレルを退くという衝撃的なニュースが入った。「どうしようかと思いました。新たな独立を考えていると聞き、一緒に仕事をしたい気持ちでいっぱいでした」。

 

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