チャレンジャーの軌跡

第7回「"生きる"とは、森羅万象を味わい尽くす旅のことだ」(前編)

2008/10/30

インタビュアー:有政 雄一

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五分刈りの坊主頭に、ぶ厚い胸板、大きな声、笑顔......。現在30歳の彼が、ほんの2年前まで、将来を嘱望された銀行マンだったと知れば驚く人が多いかもしれない。"らしくない"、のだ。自他ともに認める銀行不適合人材。

在行時の評価は抜群で、多少の謙遜もあるだろうから、その分は割り引くべきだが、新卒で入った銀行に長く勤める「気持ち」はさらさらなかった。

あたかも登山のように、わき目を振らず、ひとつしかない"目標"を目ざして、ひたすら登り続けるキャリアもあれば、"出会い・運命"という水流に身を投じ大海を目指す、目の前に思いがけず現れる、逆巻く渦や突き出た岩を避けながらボートを操るラフティング(急流下り)のようなキャリアもある。氏の場合は、典型的な後者のタイプだ。今回、次回の2回にわたって、「ボート使いの名手」の軌跡を紹介したい。

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東京で声楽家の長男として生まれ、幼稚園から高校まで学習院に通う。
教育熱心だが、自由放任の面もあるユニークな家庭で育った少年が、将来に対する一大決心をしたのは中学2年のときだった。

政治家になりたい。発端は、当時世間をにぎわせていたFS-X(次期支援戦闘機)構想で、結果的に、大国アメリカが日本による純国産の戦闘機開発計画に待ったをかける形となった。

彼は言う。「当時のレーガン大統領自ら乗り出してきたのですが、会談の席で、彼の肩くらいしか身長のない竹下登首相がニコニコ笑っていた光景をテレビで観て、子ども心に、日本は独立国ではないのかという悔しさで一杯になった。それがきっかけで、政治家になって日本を変えたいと決心したのですが、政治家になるには、地盤・看板・カバン(資金)など困難な条件をクリアしなければならない。そこで、直接、政治家にならずとも、官僚になれれば政治の変革に手を貸すことができるのでは、と志望を外交官に変えました」

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すばやい行動は彼の身上である。外交官になるための手引き書を購入し、読みふけった。発見があった。自分が内部進学する大学の卒業生には外交官試験の合格者が皆無に等しい......。多いのは、東大、一橋、早稲田、上智、慶應だ。一橋大学を狙おうか。翌日、また書店に出かけ、一橋の赤本を購入し、読みふけった。なんと中学2年の時である。それから毎年、少年の本棚に、外交官試験の問題集と一橋の赤本が1冊ずつ仲良く増えていった。

高校に進学し、一浪後に望み通り、一橋大学法学部に入学する。中学・高校と打ち込んできた陸上の短距離走を大学でも続け、3年時に外交官試験に合格、そのまま大学は中退というコースを思い描いていた彼の計画は当初から変更を余儀なくされた。勉強一筋の生活がたたって体重が増え、短距離走向きではない体になっていたのだ。

"砲丸投げか、ハンマー投げなら"という陸上部の上級生の言葉を振り切り、キャンパスをとぼとぼ歩く失意の彼に、後ろから声がかかった。「アメリカンフットボールをやらないか」。

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この出会いに彼は身を投じる。水を得た魚のように、アメフトの虜になった。
ボールを使った格闘技のハードさは、短距離走の比ではない。フィジカル・トレーニングが終わった後は、ビデオを見ながら連日、深夜まで打ち合わせが続く。当然、授業に出る時間も体力も残っていなかった。こうして、大学生活4年間はアメフト一色に終わった。しかし、外交官になる夢を捨てたわけではない。大学 4年の12月まで、アメフト漬けの生活を続けた後、試験のための留年という道を選んだのだ。試験は翌年の6月だから、残された期間はわずか半年。

大学生活すべてを賭けても合格するかわからないという難関を、そんな短期間の勉強で突破できるかという不安はあったが、後にはひけない。あっという間に半年が過ぎた。へとへとになりながら、必死で試験を終えた後、はたと気づいた。試験に受からなかったら、卒業しても行く先がない!翌日から職探しを始めた。

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